だいたい日刊 覇権村

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キャベツと哲学

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キャベツと向き合う時、

人は哲学に直面する。

例えば、あなたは今、

包丁でキャベツの芯を

取り除こうとするとしよう。

包丁を振り上げ、さぁ切ろうという時、

必ずこんな問いが脳裏をよぎる。

「一体どこまでが芯で、

どこまでが葉なのだろうか?」

そしてこの問いを突き詰めていくと、

「そもそもキャベツとは何なのか?」

「そしてキャベツに疑問を抱く『私』とは

何なのだろうか?」

「人間とは何か?」

「宇宙の始まりとは・・・」

と、この世界の理へと必ず突き当たる。

多くの人間がキャベツの前で硬直し、

物思いに耽っているのは、

そういう理由がある。

そしてその全てを取り扱うことは

とてもじゃないができない。

ここでは一番最初の問い、

「キャベツのどこまでが芯で、どこまでが葉か」

というプラトン以来哲学者がずっと考えてきた

難問に挑戦してみよう。

 

まず、この問題に取り組むにあたって、

こんなことを言う人達がいる。

「どっちが芯で、どっちが葉かなんて

そんなのどっちでもいいじゃないか」

だが、道徳的相対主義は退けなければならない。

キャベツに対してすら判断を下せない人間が、

他のことに対して決断を下せるとは

到底思えない。  

キャベツに対して不誠実な態度を取る者は、

人生に対しても曖昧な態度を取るようになり、

やがては死ぬことになるだろう。

しっかりと考えなければならない。

 

こうした問いに最初に答えたのがプラトンだ。

この目の前にあるキャベツは

二次的なものであり、

不完全な存在に過ぎない。

物事が完全な形で現れる

イデア界において、

それぞれ芯のイデア

葉のイデアが区別される。

(キャベツイデア論)

 

次にこの問題を考えたのはアウグスティヌスだ。

生前神の教えに従った者は

キャベツの葉の国へ行き、救われるが、

自分のことしか考えなかった者は

芯の国へ行き、切り捨てられて

救われることがない。

(キャベツの葉の国、芯の国論)

 

続いてデカルトだ。

彼はこんなことを言っている。

キャベツの葉も芯も疑わしい。

それどころかキャベツの存在自体疑わしい。

だが、疑わしいと感じている自分は

今確かに存在する。

(方法論的キャベツ懐疑)

 

そして我らがニーチェ大先生だ。

みんなもおなじみあの言葉である。

「キャベツは死んだ」

(キャベツニヒリズム)

そう、キャベツは死んだのである。

そして死んだキャベツには

芯も葉も関係ない。

芯か、葉かという問い自体が

無意味であるということだ。

 

ところで皆さんはお気づきだろうか?

どの哲学者もキャベツ問題について

考えているようでいて、

実は巧みに問題を回避していることを。

そしてそれは未だキャベツ問題が

解決されていないことを示している。

つまりこの問題については各自、

自分の頭で考えなければならないということだ。

これを避けて通ることはできない。

つらいことだがこれ以外に無いのだ。

 

皆さんはどのような答えを

導きだすだろうか?

私はキャベツの芯は適当に取って

適当に捨ててます。