だいたい日刊 覇権村

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帰宅学各論 帰宅神授説

近年、帰宅学は学問の世界において、

最もホットな分野の1つだ。

帰宅を巡る学説には、

様々なものがある。

 

例えば、

一緒に帰宅することで心が通じ合い、人々の輪が広がる

(帰宅コミュニケーション学派)

 

帰宅は人間を自由にする

(帰宅リベラリズム)

 

帰宅は神によって与えられた当然の権利

(帰宅神授説)

 

などである。 

帰宅学の主要な学説については、

以前の記事で触れたので、

繰り返しは避けよう。

https://www.buddha01.ooo/entry/2017/03/31/173319

 

今回は各論に入り、

学説の1つ、帰宅神授説を、

深く見ていこうと思う。

 

さて、帰宅神授説の起源は、

中世ヨーロッパに由来する。

時はキリスト教全盛期。

宗教真っ盛りの時代である。

当時は様々な事が

宗教で説明された。

例えば、

「なんで王様がいるの?」

「なんで王様が国を治めてるの?」

という問いに対し、

「だって神に授かった権利だもん」

という答えがあった。

これが王権神授説だ。

同様に、

「なんで帰宅があるの?」

「なんで帰宅は大事なの?」

という問いに対しては、

「だって神に授かった権利だもん」

と説明された。

これが帰宅神授説だ。

わかる。

確かに帰宅は神に認められている感がある。

帰宅中はすごい元気になるし、

人に優しくなれる。

隣人愛と恩寵が注入されている感じだ。

それにそもそも人間自体、

神に創られたらしいし、

「家に帰りたい」という思いも、

神に創られたに違いない。

そんな風に思えなくもなくもなくもなくもなくもなくもない。

 

こうして帰宅は、

王によっても、教皇によっても脅かされない、

神聖不可侵の権利として、

認められることになった。

 

だが、そこに現れたのが、

かの有名な哲学者ニーチェだ。

彼はこう言った。

「神は死んだ」

死んでしまった。

この世に帰宅を生み出した神が

死んでしまったのだ・・・。

そして神が否定されたことによって、

帰宅の神聖さもまた否定された。

帰宅は神聖でも何でもなく、

ただの帰宅になってしまったのだ。

帰宅神授説主義者達は、

まるで帰る家を失ったかのような、

心細さを感じたに違いない。

しかし、そうした心細さが、

よりいっそう

「早く家に帰りたい」

という欲望を強めた。

そしてネオ帰宅神授説が登場するのだが、

それはまたいずれ別の機会で

触れようと思う。